YuTofuの日常に関するblog

  • 最適と幸せ

    昨日は主観性と自分について雑記した。
    さらに、先日は「機械化するヒト」1について書いた。

    これらの2つのことをまとめて、よりマクロに「幸せとは?」について書こうと思うとは、それぞれの日の自分は思っていたなかっただろう。

    幸せとは?
    答えは、主観性に基づく感覚および感情

    もちろん、これは暫定的な回答としての、2025/10/16の私のものである(この答えがどのように人生で変わっていくかというのも、また自分の楽しみに1つになりそうだ)。

    幸せは、主観性に基づくのみで良いのだろうか?
    最初に思いつくのは、そのような疑問だろう。
    その疑問に対しては、『嫌われる勇気』2の以下の言葉が勇気づけをしてくれるだろう。

    「わたしは誰かの役に立っている」という主観的な感覚を、すなわち「貢献感」を持てれば、それでいいのです。
    [中略]
    幸福とは貢献感である

    岸見 一郎・古賀 史健『嫌われる勇気』, ダイヤモンド社, 2013年, p252-253.

    この言葉からもわかるように、主観性というのが、溢れ出す感覚・感情が幸せを作るのだろう。

    さらに1歩、論を進めて「最適」というものに言及しよう。
    上記でも言及したように、幸せとは主観性に基づくものであるのならば、なぜ現代の人たちは、「最適」を目指すのだろうか。

    1つは時代の作る、タイパ・コスパへの意識だろう。これによって、人生もまるで、1つの工場のように、「生産性」というのが意識され、そこに「最適」というのが考えられる。

    「生産性」を高め、幸せを「最適」な選択によって製造していく。まるで、産業革命時代の工場のような構造に、人間自体がなってしまったのかもしれない。

    「最適」という、普遍的に見える尺度を脇に置き、自分の主観性と向き合い、幸せを掴むことこそが、『嫌われる勇気』における「勇気」なのかもしれない。


    1. 廣瀬 通孝(編)『ヒトと機械のあいだ ― ヒト化する機械と機械化するヒト(シリーズ ヒトの科学 2)』岩波書店, 2007年, ISBN 4000069527.
      https://amzn.asia/d/7H35D2f ↩︎
    2. 岸見 一郎・古賀 史健『嫌われる勇気 ― 自己啓発の源流「アドラー」の教え』ダイヤモンド社, 2013年, ISBN 978-4478025819.
      https://amzn.asia/d/heDqUjk ↩︎
  • 主観性とヒト

    ここまで、「機械化するヒト」というものをひとつのテーマのもとで、機械化について、書いてきた。

    それに対して、現代におけるヒト足り得るものはなんだろうというものについて書いてみる。

    結論から言うと、現代においても、ヒトがヒト足り得るものは、「主観性」だろうと考える。

    辞書によると、主観とは、「自分だけの見方にとらわれているさま」とのことだ。

    現代および科学では、批判的な文脈で使われることが多いだろう。筆者も客観的、論理的の対義語として、批判的な見方をしていた。

    一方で、昨今、「人間的とは?」という疑問への暫定的な答えになり得るものだと考えている。

    これを大切にしているのが、アートやデザインという分野だろう(これら二つを同じに扱うと怒られるが…)。

    そこから何を感じるか?どっちの方が良いと思うか?そういう小さな主観的な積み重ねを丁寧に議論するのが、デザインだと感じている。

    こういう主観を大切にし、他人を尊重する習慣にこそ、何か科学の(良くも悪くも)無慈悲とは異なった、「幸せ」を創出する源泉なのかもしれない。

  • My Rule

    当たり前だけど、明文化することが大切だと思ってルールを列挙

    1. 行動しない理由を探し始めたら、その行動は行う!
      (2025/10/14 作成)
    2. 夜やりたいと思ったけど、重いな…と思う作業は大切なので、次の日の朝イチで行う!
      (2025/10/14 作成)
    3. 「怒り」や「イライラ」を感じたら、”休憩”をしてみる。
      (2025/10/16 作成)

    行動規則というのを列挙するところがまた機械化する人間らしいと思う(2025/10/14)。

    行動規則というルールとしても解釈できるが、自分との対話の軌跡とも取れる?(2025/10/16)

  • 「予定」と「ジブン」

    「予定」とは非常に使いやすい存在だろう。

    「予定があるから」
    「忙しいから」 etc…

    現代を生きる私たちは、常に時間に追われていると言っても良いだろう。そんな中で、時を止めるかのような働きをするものを私は求めているのかもしれない。

    一方で、「時を止めるもの」というのは、自分のほかにいなく、幾許の人間を除いて、「予定」と立ち向かうことがどれだけ大変なことか考えることもない人が多いだろう。

    「まぁ、いいか」「今は忙しいから」

    なんてそんな言葉を口にしているうちに、時間が過ぎていく。
    それが良いことであれ、悪いことであれ、それは自分がその時間に対して、価値評価を行うだけである。
    この価値評価は、絶対的なものになることは少なく、おおよそが他人との比較による、相対評価だろう。
    そのような「評価」を繰り返していくうちに、自分とはなんなのか。自分というものが、「ジブン」という形のない存在、空虚なものに変わっていくことに気づくこともないだろう。

    ただ振り返ったときに、タスクをこなす「ジブン」が立っているだけ。

    それを人は幸せと言えるのだろうか?
    幸せとは何か?

    難しいこの質問に対して、いつかclearに答えることができる日を一人の「ジブン」として待ち望んでいるのかもしれない。

  • 現代社会の作り出した機械的人間

    初めまして、毎日1投稿を目指してブログをスタートしました。
    毎日2000字を目標にのんびりとやっていこうと思っています。

    現代では、CharGPTをはじめとした生成系AIの普及し、文書を自分の手で書く機会というのも非常に減ってきたように思います。
    筆者も伝えたいことを箇条書きにし、「文章にしてください」の一言で文章の生成を行ってもらっています。
    そのような時代だからこそ、あえて自分の手で何かものを書いてみたい、そしてそのような機会を使って自分というのをもう一度見つめなしてみたいなどというのが今回のブログの動機になります。

    さて、タイトルの通り、本日は「現代社会の作り出した機械的人間」ということについて書いてみたいと思います。

    このようなタイトルでの随想は、廣瀬通孝先生のある本が1つのきっかけになっています。

    『ヒトと機械のあいだ
    ヒト化する機械と機械化するヒト
    (廣瀬通孝、岩波新書、2007)

    この後者に該当するのが、現在社会の生み出した存在なのではないか?などというのがきっかけになります。
    「機械化するヒト」という表現が、20年近く前に既に記述されていたということに少し私も驚きがあります。

    現在の人は、タイパ・コスパを気にし、どのように効率的に生産性をよくしていこうかを考えることが常だと思います。
    特に若者にはそのような風潮が常にあり、私自身もその一人だったのではないかと思います。

    そんな中、人間関係上のトラブルで、一度心を壊してしまった私は、幸せなことに、「機械化した」自分を見つめ直す機会を得られました。

    これまでは、カレンダー上にやることを配置して、それを元に、タスクのように、やることをこなしていく自分。
    ふとある瞬間に、立ち止まった瞬間に、次の一歩が出なくなってしまいました。

    そんな姿を、現代は「行動が先で、やる気は後から」という一般的な言葉を投げかけてくるかもしれません。
    しかし、その言葉は刺さらず、私はこれで良いのか、と問い直す時期にあると思っています。

    結論としては、ある種の自己満足的なところではございますが、これから変わっていく「自分」に対して、向き合う。そしてその姿を見て、現代が生み出した「機械化するヒト」もしくは「機械化」しつつあるひとに何か感じるものがあれば良いと思っています。

    終わりにはなりますが、ここから雑記的にはなりますが、自分の感性というのを使いつつ、適宜紹介なども含めてblogをやっていこうと思います。

    おそらく癖のあるものでしょう。
    ここまで生きてきたことによってついてきたシワというのに丁寧に向き合いつつ、誰かへの貢献になればと思います。

    今後ともよろしくお願いいたします。

  • Hello world!

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